outcry-ongakuの語り場

電音部に関する記事をちょくちょく書いてます!(不定期更新)

【電音部考察】"音楽原作"だからこそできる考察 外神田文芸編

 この様に10年ぶり位にブログなんてものを書こうと思い立ったのは他でもなく、今ハマっている電音部というコンテンツのお陰だ。この電音部というコンテンツ、"音楽原作"という性質上なのか、はたまた、まだコンテンツ始動してまだ日が浅いせいか世界観についての説明が殆ど無いという状態である。しかしながら、音楽原作という事ならば音楽からその世界観を考察すればいいのではなかろうかと思い、この様にまとめてみようと思った訳である。(そして、まだ未開拓な電音部考察界隈で一旗揚げようと思い立った為)さて、今回は敢えてキャラクターの個別の考察ではなく、彼女達を包括する「学校」の括りで考察していこうと思う。

 

 

まず電音部ってなーに?

 電音部について、簡単に説明すると「近未来の日本を舞台に、DJを行う部活、通称「電音部」を通して描かれる少女達の物語」というものだ。(詳しい説明は公式ページから見ていただけると幸いである。)

denonbu.jp

 しかしながら、映像などの視覚的メディア媒体による世界観の説明は殆ど無く、(あってもMVやエリアの背景程度)トンデモ技術の説明がキーワードとして載っているだけである。(この辺り、UGSFとのとの関連でエスコンとも繋がりがあるらしいのだが、筆者は詳しくないので説明は割愛させていただく。)しかし、ダンスミュージックをテーマとしたとあるように楽曲については豊富を極め、つい先日には40週間にも渡る新曲デジタルリリースという頭おかしい素晴らしい発表もあった位である。さて、この一流のコンポーザー達によって作られる楽曲は大別して2つの分類ができる。それが「個人曲」「エリア曲」である。個人曲はその名の通り、キャラクターがソロで歌う曲であり、そのキャラクターのパーソナリティについて描かれている。それに対して、エリア曲はそのエリアに属するキャラクター全員が持つ共通のパーソナリティについて描かれていると私は考察している。では、共通のパーソナリティとは一体何なのかという事について解説していこうと思う。

エリア毎に持つパーソナリティはネガティブなのではという考察

各エリアにおける活動量と方向性の差について

 さて、このエリア曲の考察を行うに当たって、前提となる事がある。それは、各エリアにおける「電音部」の活動量と方向性の差についてだ。主人公的ポジションである日高零奈達が属する「アキバエリア」は黎明期においては最先端だったが現在では廃れてしまって、活動そのものが停止していた状態となっている。一方、音楽に特化した学校として最強の位置に君臨する「シブヤエリア」、帝音国際学院の分校として「落第生」達を受け入れながらも、打倒シブヤを掲げ見返す事を狙う「ハラジュクエリア」、比類なき財力で至高とも言えるプレイヤーの育成を目指す「アザブエリア」と他エリアは自分達の目標を持ち、動いている事がわかる。この事からもその活動量や目的に大きな差があるのだ。

差から見える、各エリアのパーソナリティ

 この様に活動量や方向性の差から見えてくる事は、それぞれがそれぞれの苦悩があるという点である。アキバエリアは過去の栄光の喪失と衰退による電音部文化の断絶の危機であるし、シブヤエリアが持つ王者としての重圧というものが各所で断片的であるが語られていたりする。ハラジュクは全面にシブヤエリアに、「王者」になれなかったという面が色濃く出ている。そして、アザブは至高のプレイヤー≒孤高のプレイヤーという雰囲気を個人曲などから感じざるを得ない。この様に考えると、各エリアにあるパーソナリティは暗いものが多い。

 私はこれを踏まえて、4つのエリア(高校)が持つパーソナリティをこの様に考察した。

  • アキバエリア(外神田文芸高校)は「無力感」
  • ハラジュクエリア(神宮前参道學園)は「依存心」
  • アザブエリア(港白金女学院)は「孤独感」
  • シブヤエリア(帝音国際学院)は「羨望の重圧」

今回は特にアキバエリアのパーソナリティについて考察していこうと思う。

アキバエリアの無力感 ~衰退したエリアとしてのアキバ~

何故アキバは衰退してしまったのか?

※以下からの内容には公式MOOK本のネタバレを含みます。こちらを一読してから読む事をお勧めいたします。

shop.asobistore.jp

 考察を進めていく上でアキバ(外神田文芸高校)が何故黎明期に活躍を果たしながら、衰退したのかという点については明確な説明がされていない。現在ある情報で唯一なのは、公式ページのキャラクター紹介欄にあるパフォーマンスをメインとする現代の電音部を志望する人はほとんどいないという説明のみである。しかし、この情報から黎明の電音部と現代の電音部は別物であり、アキバは現代の電音部に淘汰されたという事になる。では、黎明の電音部とは一体どういうものであったのだろうか?そこについて考えてみることにする。

現実世界のDJの歴史との関連性について

 近未来を舞台とした電音部の世界観において、我々が今知っているDJの歴史と地続きである旨がMOOK本には掲載されている。ただし、FAIHSの流行と共にアナログタイプの機材は淘汰されていった事も同時に示されている。

 現実におけるDJの誕生は1969年にアメリカのフランシス・グラッソによって行われた、曲と曲とを繋ぎ合わせるというMIXから始まっている。このDJの文化は貧困層や差別に苦しむ黒人達にとっての表現と娯楽の場に欠かせないものとなり、「ヒップホップ」や「ダンスミュージック」と新たなミュージックへと繋がっていく。ここでアキバエリアの日高零奈の個人曲である「Favorite Days」の歌詞を思い返してほしい。

youtu.be

この曲はDJのアンセムとしての側面を強く持つ曲であり、歌詞の節々にDJに関連する要素が含まれる。「大好きなものを集めて君に届けよう」や「僕らの日々を繋ぎ続ける」などがいい例だろう。しかし、この曲におけるDJ像はパフォーマーという側面ではなく、上述のミュージシャンとしての要素を強く持つものだという事が歴史から見ていくとわかる。

 現実世界のDJも80年代前半から起きたスクラッチなどの技術の発展により、スキルを競うパフォーマーの要素が色濃く現れ、現在の我々が抱くDJ像へと繋がっていく。この歴史の流れがもう一度、電音部の世界にも流れているのでないかと考える事ができる。(零空さんの(というか、アキバが持っていたのであろう)スピリットを零奈はもろに受け継いでいるんだよな)

本当にアキバエリアにおいて電音部の文化は衰退したのだろうか

 このようにして、「黎明の電音部」と「黎明のDJ」を重ね合わせた際にある事に気づく事が出来る。それは今も昔もDJは「人を楽しませるエンターテインメント」であるという要素だ。これは電音部にも当てはまることだろう。つまり、アキバエリアの電音部が持つスピリットは他エリアと比べても遜色ないはずなのである。この事からもアキバエリアは「電音部文化が衰退した」のではなく「衰退したと思い込んでいる(思わされている)」という考えになった。

持たない者の無力感と持つ者の劣等感

アキバエリアとハラジュクエリアの違い

 「劣等感」という言葉が電音部の中で(言い方悪いが)一番似合うのはハラジュクであろう。名門であるシブヤの帝音国際学院を落ちた事をコンプレックスに持ちながらも、それでもシブヤと戦おうとするハラジュクのセンター 桜乃美々兎というキャラクターにとって「劣等感」が重要なファクターとなっている事は個人曲からも分かる。しかし、それでも美々兎はシブヤを受けられるだけの現代の電音部の技術を”持った”存在なのである。対して、現代の電音部の時流より乗り遅れたアキバエリアの電音部はその技術を持たない、言い換えれば「他エリアと戦う権利すらない」、「無力な」状態なのである。

 電音部の世界においてDJが趣味として認められている事がキャラクターの説明(主にふたば、雛、紫杏の説明)からわかる。つまり、作中では語られていないが、アキバにも多くのプレイヤーがいるはずなのだ。しかし、アキバの中で電音部が他エリアに敵わない要素がある。それが「STACK バトル」であろう。和音と零奈のバトルにおいて、独学で基礎を一通りできる和音が72点である事を考えても、少なくとも80点以上を叩き出さなければ勝てないのだろう。この事からも、技術面で劣るアキバの電音部では太刀打ちできなかったと考えられる。

三人が抱えるそれぞれの「無力感」

 現在、アキバエリアのエリア曲は二つある。「Hand Over」と「Blank Peper」だ。

youtu.be

youtu.be

この二つの歌詞は共通して、Aメロ部分においてそれぞれの無力感が描かれている。

 零奈がもつ無力感は「姉との才能の差」というのがあるだろう。どうして、零奈が姉と離れ離れになったのか、北海道からアキバに来たのかなどは説明がない。しかし、姉が幼い時の零奈のDJを「音楽じゃない」と否定された事、そして自分の前から突然いなくなってしまった事は明確に描写されている事からも姉の才能や家族の離散が「抜け落ちたピース」なのではないかと考察する。

 和音がもつ無力感は「万能がゆえに何にもなれない」という事だろう。DJについても”飽きた”のは自身が持つスキルゆえであった。零奈やふたば、他エリアの面々と比べても和音には「全てを捧げて熱中できるもの」や、「秀でた才能」というものがない。だからこそ、そういった気持ちや才能に憧れながらも、理解できないと目を逸らしてきたのだと考えられる。(和音のクレイジーレズも多分この辺りの憧れからありそう)

 ふたばがもつ無力感は「変われない自分へのふがいなさ」であろう。アイドルになりたいという自分となれないと思わされる環境、内に秘める熱い性格とそれを恥ずかしいと思う自分。そういった背反する気持ちに自己嫌悪している節がMOOK本には描かれている。

 しかし、サビ入り前からサビにかけてそういった無力感を打ち崩すように「仲間との絆」をイメージした歌詞や歌い分けがされている。また、他エリアと比べても直球で歌う歌詞が多い辺り、「個人の技術だけではない、チームで戦う」というアキバエリアの意志のようなものが含まれていると思う。

終わりに 皆も考察しよう!!!!!

 電音部は音楽原作であると明言されているという事は、我々ファンには音楽からの考察が求められているのだと勝手に解釈している。これは既存のコンテンツがキャラクターや世界観の設定を事前にその都度、様々な媒体で示し、理解してもらってからスタートに対して、電音部は何一つ明確な説明はされず、断片的な情報と楽曲が次々と出てくるという全くコンテンツの常識を無視した作りであるからだ。この辺りは「本気で音楽に向き合うなら、コンテンツの要素も音楽に混ぜ込め」というバンナムの確固たる意志があるのかもしれない。だとするなら、我々ファンはその混ぜ込まれたメッセージを読み解いていかなければならない。正直、私の考察も正しいという確固たる証拠はない。というか、妄想ベースの駄文である。しかし、ファンが皆で行い、ブラッシュアップする事ができるなら、我々は我々の手で解像度を上げたという事になる。つまり何を言いたいかというと「電音部は考察しがいのあるコンテンツだぞ!!!!!!!それはそれとして、MOOK本のハラジュク編以降も出してくれ!!!!!

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